CRF250L 島と呉

三連休の3日目。朝起きて、天気をみる。

連休前の天気予報は連休の後半に断続的に雨の予報だったので泊を伴うお出かけを控えたけれど、結局降る降る詐欺だったようで最終日も1日天気が持ちそうだ。

「江田島と呉‥」と起き抜けの頭に急に浮かんできたので、朝の宇品港へ来た。今日は広島ならではの広島らしいツーリングをしてみよう。

現金が財布に入っていなかったので途中のコンビニで現金をおろしてきたのに、港のローカル航路の発券機でさえ支払い方法何でもありになっていた。このままではますます財布の中に現金を持ち歩く習慣がなくなってしまって、いざという時に困ってしまいそうだ。

広島湾に浮かぶ江田島へは、広島の宇品港から島の4ヶ所の港へ船が出ている。

今回は三高港へ。島の一番西の外れにある港なので島を大きく巡るツーリングの出発点には最適な港だと思っている。

朝はそれぞれの港へ30分に1本程度の割合で船が出ているので船の往来が慌ただしく、宇品港はとても賑やかだ。

沖に出て宮島と自分の家の方面を、普段と違う視点から見る。島の形や陸の位置関係がとても新鮮に感じる。

まもなく上陸。祝日の朝、三高港へは車が2台とバイクが1台。お客は全部で6人だった。この便はおそらく船員さんの方がお客よりも多い。

走り出してすぐ、岩山を掘り抜いて入り口をレンガで補強した防空壕のようなものを見つけた。

この島の北部には明治時代から広島湾を守るための海軍と陸軍の施設があちらこちらに点在している。これもそのひとつなのだろうか。

島からみる自宅方面。普段は対岸から朝焼けを見るのにこちらを見ている。

ガレた林道を見つけて登ってみた。似島が見える。

放っておくと藪に埋もれてしまいそうな、使われていない林道を走る。この時期は蜘蛛の巣のゴールテープを何本も切る、心の耐久レースになる。まだまだ夏だ。

三高山砲台の北部砲台跡にある兵舎跡。明治時代につくられた兵舎の遺構は、壁が石造なので今でもしっかり残っているところが多いけれど、木造の屋根を残した状態で保存されているものはそれほど多くはない。

この屋根と壁の堺には明かりとりの横長の窓もついていて、日中は自然光だけでも建物の内部は随分明るい。当時もこのような構造だったのだろうか。

すぐそばにレンガでできた炊事場が残っている。お釜を載せる穴が2つ。

他所でもよくみるスタイルの施設。ここでは避難壕と書かれていた。

明治時代に描かれた図面がパネルになっていた。とてもありがたい。当時としては最高の機密事項だろう。この図では北が右側。

三高砲台は北部砲台と南部砲台で構成されている。現在はこの図面でいうと砲台の上側斜面に舗装道路が通っている。CRFで登ってきた道は昔の軍道だったようだ。

近くの海岸の岸根砲台の図面もあった。こちらは公園化しようとして半分を崩してしまったので、3基あった砲台跡も下側の2つは失われている。

今はものすごい廃墟になっている鶴原砲台の図面もあった。

施設部分を拡大。並んだ砲台の両サイドに観測所があるように見える。以前左側の観測所は見つけたけれど、右側の観測所はジャングルの中である。また、砲台に至る道は左側にもう1本あったようだ。

図面を参考に、もう一回は行ってみるか‥。

山を降りてヘルメットを脱いでみると、見事に蜘蛛の巣を潜った跡が残っていた。

江田島図書館に屋外展示されている浜田省吾の座ったというベンチ。全然目立たないところにあるけれど、好きな人・知っている人には大切なスペースなのだろうという熱を感じる。

この日江田島のメインイベントは、衛星写真でみつけた古鷹林道展望所というところ。山の中の分岐から先が通行止めになっていた。迂回すると延々遠回りになってしまうので、この日は諦めた。

峠の切り通しの上にかかる橋。所々抜け落ちているので余計に気になる。

2021年7月のストリートビューの映像をみると抜け落ちていないので、ここ数年で一気に劣化が進んだ様子だけれど、これはかなり危ない部類のものだろう。

あやのすけさんからロシア系美人店員さんが居るという情報を聞きつけて大柿のローソンへ来てみたのだけれど、レジに立っていた2人のおばさんのどちらがロシア系美人だったのか僕にはさっぱり分からなかった。

島から本州へ戻って来た。

4日前(2023年9月14日)に全ての設備が停止した日本製鉄の製鉄所では一部解体も始まっていた。この景色も近い将来変わってしまうのだろうと思って写真を撮っておいた。

なんだろう、創業72年の製鉄所には一朝一夕には滲んでこない渋さというか複雑さの魅力がある。

衛生写真で見ても、ここだけ「鉄、酸化してます」という色。

ざっくり長さを計測してみたら、ディズニーランドとディズニーシーを合わせたのと同じくらいの広さだった。良いんですよ、テーマパークにしてくれても。

南極観測船しらせが入港しているということでアレイからすこじまに立ち寄ってみた。朝には停泊していたようだけれど、お昼過ぎに到着したらもういなくなっていた。

前回いつ訪れたのかわからないくらい振りに大和ミュージアムへ行ってみる。

屋外の陸奥の砲身や錨などを展示してあるこのスペース、手すりの形状からすると実寸大の陸奥の船首を模しているのか?

海に張り出した大和波止場という公園は大和の左前方の船首が実寸で再現されている。これと比べてみると陸奥船首と疑った箇所はちょっと細長すぎた。

久しぶりに大和ミュージアムへ訪れてみたのは航空母艦の特別展が開催されている、というのを聞いたから。昭和9年の空母赤城の写真には、飛行甲板に複葉機がびっしり。この状態から先頭の機は風上に航行していたら離陸ができたのだろうか。

飛行甲板下の格納庫に収めた状態もぎゅーぎゅー詰めで何かのパズルにも見える。カオス。

旭日旗が国のシンボルだった時代に、洋上でこの赤白の縞模様をみたらほっとするだろう。

操船は艦橋の舵輪で行うのだろうか。そこでの操作が舵へ直接繋がっているのだろうか。

館内の壁面をみると、艦内にいるように思わせる工夫がしてある。実際、整備甲板に居るように見せていたようだ。

こうして並べられると、すごい数の航空母艦だ。一堂に会する機会はなかったにしても、これだけのものを日本が持っていたというのが信じ難い。

特別展の出口に、給油艦の模型が展示してあった。給油艦でありながら終戦間際の空母不足を補うため、航空機を数機載せ、カタパルトから発艦させることができたとのこと。

狭いデッキで上手く運用するために、カタパルトも回転式になっている。かなり可愛い。

大和ミュージアムには1/10の戦艦大和の再現模型が置いてある。

1/10といっても元が260mもあるので、これは20m以上もある巨大模型だ。製造も造船所が行っている

艤装のために呉海軍工廠に寄港した武蔵を、現在のジャパンマリンユナイテッドのドックに収めてみた様子。

現代の大型タンカーは長さ330mもあるらしい。大和級がいくら大きいと言ってもこうして並べてみるととてもか細く見える。

呉海軍工廠では大型艦船だけでなく特殊潜航艇なども作られていた。

大和ミュージアム、という名前になっているが戦艦大和に関する展示よりも、呉の歴史とそれに伴って呉海軍工廠に絡んだ艦船の展示の方がボリュームが大きい。本当なら呉ミュージアムと呼ぶ方が似合っている。

翼内に20mm機銃と13mm機銃を積んだ62型で、爆撃用途にも使われた零戦でも最終型に近いモデル。灰白色で色彩的にも軽快な21型に比べて、濃緑色の後期モデルは零戦らしいといえば零戦らしいけれど、なんだか重厚なイメージだ。

多分、子どもの頃は左側のエンジンにしか目が向かなかったと思う。今は右側のクランクに繋がったピストンに眼を奪われる。

単体でみてもこの重み。先の大量に並んだ航空母艦に驚きを感じたように、こんなものが大量に生産されていた景色にはどれほどの重みがあったのだろうか。

大和のまわりをぐるぐると回りながら2階、3階へと上がっていく。

見下ろす角度から鹿児島沖で大和と対峙したアメリカ航空機のパイロットの視点を意識してしまう。

これだけ大和に肉薄はしていないにしても、甲板に並ぶハリネズミのような対空砲の砲口がいつこちらを向くかわからない。これに突っ込んでいって沈没させるのが目的の仕事って、本当に何も良い事はない。

大和ミュージアムは建物自体がよくできていて、艦内の大和や屋外の鉄のくじらを見られる窓やテラスが所々に用意されている。

艦内に艦船の模型が数えきれないくらい展示されているので、それに見慣れて屋外の潜水艦をみるとこれまで模型なのではないかという気持ちになってしまう。

島と呉を巡って帰宅しても14時過ぎ。近場でチャプチャプしても十分楽しい、広島らしいツーリングだった。

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