太平洋と俺の城

千葉県北部に住んでいた頃はワインディングロード大好きっ子だった。そうなるとどうしても気持ちが西や北の栃木や群馬や長野方面へ向かってしまって、千葉県や茨城県の太平洋側へはほとんど足を伸ばしていなかった。

普段の帰省なら夜明け前から朝の東京徘徊にでかけるところを、親父のスーパーカブ110を借りて今回は全く逆方向の太平洋へ向かってみた。

茨城県の利根川沿いを東へ進むと、太平洋の手前になるまで延々と田んぼが広がっている。広島では見ることのできない、広大な地平線まで広がる田んぼ・田んぼ・田んぼ。

広島の平野部は宅地優先で使われているので、田んぼはどちらかというと山際から山間部に分布している。こんなに広くきれいな矩形の田んぼが延々と続いている風景は、それだけでエキゾチックだ。

太平洋に到着した。あいにく海霧が出ていて、水平線は見えなかった。

超横長の波頭がゆったりと押し寄せてくる。瀬戸内海とはスケールが違う。四国で見る太平洋とも表情が違う。

初めての体験だったのは、横いっぱいに広がる波が海全体に潮騒というよりも轟音を響かせて、それが永遠に続く勢いで唸り続けている。

海に正対すると、前方向全体から音の波がすごい圧で押し付けられるような感じがするのだ。こんな体験は本当にはじめて。

加えて海霧のせいで色彩が絞られてものすごくシンプルな色合いになっている。別世界感が強烈で、これまでに見たことがない海景だった。

鹿島臨海鉄道大洗鹿島線を超える陸橋から。

鹿嶋市なのに、鉄道の名前は「鹿島」臨海鉄道。

これは平成の大合併で鹿島町が周囲の町村と合併して市になる際、佐賀県の鹿島市との重複を避けるために「鹿嶋市」になったことに由来する。合併後も鹿島アントラーズなど旧来の鹿島の名前を使っている団体は名称を変更しなかったので地名は「鹿嶋」でも団体名に「鹿島」が使われている。非常にややこしい。

陸橋の反対側には駅舎が。こちら側も地の果てまで直線路。

霞ヶ浦は以前一周したことがあるので、今回は北浦を‥と自分のGoogleMapを見ていたら、このあたりにお気に入りのハートマークが2つあった。開いてみると、「津賀城址公園」と書いてある。

そう、この鹿嶋界隈は「津賀」という名字の発祥の地だということを以前何かで調べて、その中で地名にも津賀があったのでマークしていたのだった。すっかり忘れていた。

早速向かってみることにした。

GoogleMap上の「津賀」という地名表記がされている場所‥は、なにもないただの畑。

おれは津賀。

あたらしい看板には「鹿嶋市 津賀」と書いてあるけれど、先の看板は白い目貼りシールが貼られていた。古い看板には鹿嶋市への合併前の大同村とでも書かれていたのかもしれない。

ここにも津賀。

君も津賀。

あなたも津賀。

GoogleMapにお気に入り登録していた津賀城跡へ向かってみた。来歴を読むと、鎌倉時代あたりから津賀氏の居城であったとるので、割と由緒のある氏のようだ。

城山の山頂付近は、昔土塁だったのではないかと思える盛り土のある地形になっている。本丸へ入ってみる。

津賀城跡からみる北浦。ゆったりとどこまでも横長な風景が広がっていた。

津賀城址で飯を食う。「ソロモンよ、私は帰ってきた!」アナベル・ガトーの気持ちがわかる。

霞ヶ浦も北浦も、湖の周囲にぐるりと周遊道路が巡らせてある。水の見える風景+ほぼアップダウンのない平坦路がひたすら続いていて、自転車やミニバイクで流すには最高に気持ちの良い道だ。この延々感は他の土地ではなかなか味わうことができない。

ここからは寄り道のはなし。

帰りの道すがらかすみがうらのトミンモーターランドで、モトジムカーナのサトカナ練が開催されていたので、立ち寄らせてもらった。

30年ほど続けたモトジムカーナで最後のタイム計測をしたのはもう1年半も前になる。関東の大会に至ってはもう何年もご無沙汰しているので「誰あんた?」なんて言われないかと思ったが、知っている顔の方も知らない初めましての顔の方も「つがたくさん!」と暖かく迎えてくれた。

特に知っている顔の方は、関東から四国の大会にいつも通ってくださっている皆さん。

知らない初めましての顔の方は「ブログ読んでます!」「マニュアル調べるよりブログ見た方が早いです!」と言ってくださる皆さん。

いつもありがとうございます。

旧つがたくNSR。カラーリングが変わると、見た目にはもうすっかりサトカナ号になっている。

でもね、フレームやらなにやらの細かい傷とか見ると、僕のマシンだったなぁ‥という感慨も。よくいじったからね、このマシン。

ついつい練習会会場に長居してしまって、お昼前の酷暑の時間に移動することになってしまった。

土浦界隈は蓮田が多い。自分が子供の頃に育った岩国も蓮田が多かった。

匂いの記憶というのは五感の記憶の中でも特に深く刷り込まれてふとしたことで昔を思い出すことがあるそうだ。実際このあたりを走っていると子供の頃に刷り込まれたどこか深いところにある記憶が引っ張り出されて、自分が小学校へ通う子供の頃を思い返した。

元自衛官の中Tさんとの呑み話で、霞ヶ浦の予科練(海軍飛行予科練習生)の訓練学校があった話がたまに話題にのぼった。ここでは14才から17才の少年が海軍パイロットになるための訓練が行われていた。

現在はその一部が陸上自衛隊の敷地として使われており、2010年には予科練平和記念館が開館した。狭き門をくぐり抜け、飛行訓練生として任に就く少年たちが卒業してパイロットになるまでの生活や思いを綴った手紙、また卒業後戦地でどのような活躍をしたのか、という記録が残されている。

そこに何故か回天の模型が置いてある。

飛行予科練の施設になんの関係が?と違和感があった。帰ってから調べてみると特攻繋がりで過去に回天の特別展があったこと、回天一型で最初の特攻攻撃を行ったのが予科練出身者であったこと、また映画で使用した実物大模型がここに寄贈されたことで納められているとのことであった。

半日サラリとほじくるだけで昔の目線とは違った目の高さでいろんなモノに出会える実家界隈。うろうろしたい衝動が止まらない。

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