呉・倉橋島の冒険

広島湾を囲む島や山の廃道ツーリングを楽しんでいると、思いがけず戦前の遺構を見つけてしまったりすることがあります。それが高じて遺構巡りそのものが目的になってきたこの1年、いろいろ調べてみても具体的な場所が明記されていない謎の砲台跡、早瀬第一・第二堡塁砲台を目指してあやのすけさんと倉橋島へ渡ることにしました。

本当は広の山の上にある砲台へ先に行こうと思っていたのですが、アレイからすこじまに寄ってしまったものですから目的地が倉橋島になってしまいました。
この日の前日、「そうりゅう」型の11番艦で世界初のリチウムイオン電池搭載の潜水艦「おうりゅう」が呉基地に引き渡されたというニュースが流れていたので係留されているかな、と思ったのですが、艦橋横に大きく書かれた艦番をみつけることができませんでした。

音戸渡船で対岸の島へ渡ろう、という話になりました。

古いブログを引っ張り出して調べてみると、原付は乗せられるのですが、それも「船上で方向転換できるもの」というのが条件だと言われたようです。

料金表。料金改定で紙を上に2度貼り直した跡が見て取れる。手書きのヘタクソ加減が、この建物に非常にあっている。いつまでもこのままでいて欲しい。

この船は係留中でおやすみしていましたが、対岸にいる船も僕たちが桟橋に立ってもこちらへ全く来る様子がありません。

広島から松山へ向かう石崎汽船のカーフェリーがちょうど第二音戸大橋をくぐって音戸の瀬戸を通過するところでした。

最徐航、と漢字変換でも候補が出てこない用語を使っています。奥に見えるのは古い方の音戸大橋。

さっきのカーフェリー、結構な速度でスルスルと滑るように音戸の瀬戸を航行しています。水路が狭いので潮位によって潮の流れがとても激しいところなのですが、この日はとても穏やかでした。

海を渡る箇所以外、本州側も倉橋島側もグルグルとターンの続くコーナーオンリーの道。

目的地付近に到着して、入り口と思しき山道を登り始めました。とにかく具体的な砲台跡の場所の情報がないのです。探すのは自分の足で。

落ち葉で滑り落ちそうな斜面を登りますが、この先に何もなく、この道は間違いでした。

いろいろ調べてみても早瀬第一堡塁砲台の案内が見つからないのは、そこが「私有地なんじゃないか」という疑惑からおおっぴらに「ここです!」とは言いづらいという理由があるのではないか、ということも分かりました(実際には真相が分かりません)。
今回僕たちは先人の情報をいろいろつなぎ合わせて目的地の目当てをつけて山へ入りました。この早瀬第一堡塁砲台跡はそういう探索探訪もひとつの楽しみとして味わえる数少ない砲台跡のひとつなので、僕もここで場所の明記はしません。上の写真はヒントとして挙げておきます。

地形も大きなヒントになります。当時の対艦砲は、直接弾を撃ち込んでいませんでした。敵に発見されないように山の影になったところに砲台を設置して、山頂の観測所からの司令で山越えする放物線を描いて敵を狙っていたのです。というわけで、地図を読めばこの辺りではないか、という見当がつくのではないかと思います。

多分、僕たちは非正規のルートで来てしまったのだと思います。しばらく山道を歩いていると、人工の構造物が眼下に見えました。

一堡塁砲台跡地に到着。砲台を設置する丸い基礎の穴から、御構い無しに木が茂っています。

こちらも。ツワモノドモガユメノアト感を演出するかのように木が砲座跡から生えている。

半地下の弾薬庫。この界隈の砲台跡と作りは一緒。半地下にする理由は地上の構造物よりも砲撃に耐えられるからでしょうか。

躊躇せず、「見に行かなくては」と使命感を背負って中へ向かうあやのすけさん。

外観は他の場所と似ていますが、弾薬庫も中の広さは設置されている場所によります。

鉄板。車か?と思いましたが、

「これ、車ですね」と、あやのすけさん。

ああ、車だ。後部の窓と、手前にドアノブが落ちています。

車体の薄い鉄板は手でも折れそうなくらい朽ちていますが、厚みのある金属はまだ無事のようです。

ハンドル。木製の様子。

フロントのステアリングシステムでしょうか。駆動輪ではないようです。

窓枠。

少し離れたところにアクセル・ブレーキ・クラッチペダルのユニットが落ちていました。

車種がここからわかったらすごいね、とか話をしていたのですが、日野ルノー4CVという車なのではないかという情報も。この施設は大正15年(1926年)に役目を終えたとのことですが、日野がルノー4CVをライセンス生産したのが1953年~63年、ルノーが生産したが1946年〜61年ということですので、少なくとも第二次世界大戦が終わってしばらくは車がここまで上がってこられる環境ではあった、ということになります。いや、産廃として遺棄や放棄されたというなら話は別。でも50年そこそこでここまで朽ちるものなのですか‥。

砲座跡は他の場所でも似たようなものがみられますが、ここは石積みの兵舎跡がしっかりと残っているのが目玉のようです。

屋根は落ちています。内部はジャングルですね。この石造りの兵舎跡が2棟、直列で並んでいるのです。

煉瓦造りのカマド跡と思われます。

門柱。本来はここが入り口なのだと思われます。僕たちは砲台跡の奥の方からこちらへ歩いてしまいました。第二堡塁砲台跡は第一堡塁砲台跡の奥ということでしたので、折り返します。

門柱側からみた兵舎。光の加減がとても良くて、思わず声が漏れるようななんとも言えない美しさがありました。明るさのせいで余計に侘しさや別時間の別世界感が引き立てられるように見えました。

自然石を切り出したブロックを組んだ壁がどこまでも続いています。

少し外れたところに埋まっていた弾薬庫にも躊躇なく降りて行って探索するあやのすけさん。この手のほとんどの倉庫は奥の方に伝声管なのか空気穴なのか何のためなのかわからない穴が空いています。

第一堡塁砲台跡を出て、山頂目指して歩いて行くと、突然遺跡のような構造物が視界に飛び込んできます。これは思わずまた声が漏れる。観測所跡です。

つくりはここも宮島の観測所とほとんど同じ。

山頂に設けて、眼下を航行する敵船や着弾の情報を砲台へ伝えるための施設ということです。

観測スペース。ほとんどの場合、山の頂上にあたるところにあります。

ここからまだ先に踏みしめられたような道が続いていたので、降りて行ってみると‥

開けたところに不思議なものが。手作りの展望台のようなものです。

ここを手放しに「わーい、展望台だー」と能天気に受け入れられないのは、どうも生活臭がするのです。カマドの跡があったり。

シャベルや薪が吊るしてあったり。竹製のベッドのようなものも設えてありました。

木を組むのに縛っているローブはかなり朽ちていて、もう何年も放置されて久しいのではないかと思わせる感もあるのですが、誰が何のためにここに櫓を組んだのでしょうか。

特別景観が良いという場所でもない。砲台跡とは違った意味で、ディスカバリー欲を強く満たすオブジェでした。

そこから昔は車が通っていたんだろうと思える軍道を奥へ進むこと15分。ちょっと不安になってきたころにまた構造物が見えました。第二堡塁砲台跡です。初めて早瀬砲台跡の記事を見つけて以来、ここへ来るのを夢見ていました。知らなければ絶対に来ることがないような山の中に、左に一つ、正面に二つの兵舎か倉庫の入り口が見えます。

二つ並んでいる庫内は奥で繋がっています。この辺りも他の場所のものと構造は一緒です。

大正15年に使われなくなったということですので、100年近く前のものなのですが、まだまだ住めるレベルです。

作り物に見えますが、ホンモノの石組み。

弾薬庫内の天井の穴をみあげてみると、今でも普通に穴が貫通しています。

石塁がこの砲台跡を取り囲むように続いていました。山の裾野から敵兵が攻めてきた際の最終防衛ラインなんじゃないかという感じがします。

石塁の上を歩いて巡ってみましたが、森に飲み込まれて終わっていました。

午後から天気が崩れるということで探索はここまでにして帰りましたが、遺されているものは概ね巡ったのではないかと思います。それぞれは中規模ながら、歩くとそれなりに広い山一帯に施設が築かれているので、満足度はとても高い遺構群でした。是非、とは言いづらいですが、本当に興味がある方は訪れてみて欲しいところです。

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