バイクと哲学的発想

最近読んだキルケゴール(哲学者:1813~1855)の、人の生き方に関する段階的発想をまとめると以下のようになります。

■キルケゴールの生き方の段階
第1段階「美的実存」
生きる基準を美しさや心地よさやにおいた行動をとるが、それは刹那的な行為につながり、また自分の外に世界に頼って生きることになるので、やがて自己嫌悪や挫折につながる。→【絶望】

第2段階「倫理的実存」
基準を外に置かず、自分自身の倫理観に従って生き方を選択し、自分にとってよりよい存在へ向かっていく。しかし人間が完全に倫理的に生きるのは不可能であり、無力感へつながる。→【絶望】

第3段階「宗教的実存」
倫理的合理性を捨てて、不条理を受け入れる=「無限の諦め(人が囲まれている有限なものを「無限の諦め」で包こむ)」→信仰に近づく・神に自分を預け切る→【絶望を乗り越えることができる】

(参考:「西洋哲学と東洋哲学 図で考えると面白い人生のヒント」白取春彦監修 青春出版社)

なんか、どこかで経験した発達段階だなぁ、と振り返るまでもなく、オートバイの改造について全く同じ哲学が当てはまるのが面白い。

■バイク人生の段階
第1段階
初めのうちはブランド品などのパーツに憧れて、自分の価値判断に従っているのかも分からずパーツ交換や改造を始める。しかし、その憧れは自分の価値基準ではなく実は他人が良いと思っているものを並べ立てたに過ぎないことに気づいたところで、出来上がったマシンに自分自身の思う理想形を見出せなくなり‥→【絶望(とまでは言わないけど、その意味や価値が失われる)】

第2段階
自分にとって必要なパーツやスペックが分かってくると、自分の価値判断でパーツを選べるようになってくる。そうはいっても見栄や無駄につながるパーツも取り付けたりして完全に理想形を見出すことができない‥→【絶望(とまでは言わないけれど、結局沼から抜け出せない)】

第3段階
そこで、理想形・完成形というのはあり得ない・作りえないということを「無限の諦め」で受け入れると同時に、ならばそのバランスや完全形をメーカー出荷状態に依存して、改造や改良で自分の改造欲や物欲から解放されることで→【絶望から解放されたバイク人生を迎える(ただしもともと高額なパーツが組み込まれたバイクになる可能性が大)】

若いうちはより良い(というのは欲を満たす)もの・強いものを求めてしまいがちですが、ある程度年をとってくると自分の能力が市販のマシンを改造してまで得られるような性能を制御しきれなくなってきて、盆栽マシンをつくる目的じゃなければ物としてそれを手に入れることが本当の喜びではないということが分かってくるようになります。
僕自身のこれまでの発達段階としては間違いなく第2段階にとどまっていました。しかし今回諸々改造をすることを前提でGROMを新しく購入したにも関わらず「あれ?ノーマルでも結構イケるんじゃない?」と思ったのが自分でも驚きであると同時に、これは沼から抜け出せるかもしれない‥という思いも浮かんだところにこのキルケゴールの哲学がぴったりとはまりこみました。
もちろん一人の哲学者の考え方が真理というわけではありませんし、僕のには1台目のGROMというパーツを注ぎ込む対象が別にあるから、という「逃げ道」もある前提での考えです。

仏教では煩悩や欲望を打ち払うために、たとえば物欲が沸いたときには「これは私の心が作りだしたもので、欲望の対象(この場合は購入対象のパーツ)というものは存在しないのだ」と思って客観的に自分の欲を俯瞰することで、やがて欲が心から離れてそれに振り回されずにすむ、とするそうです。「物を買う」ということは実は「物を買うことで心を満たす」ことに過ぎないわけで、満たされたい心を捨てさえすれば、物への執着も無くなる、というわけですね。まさに色即是空・空即是色。

たかが趣味、ですが大切なものですし、そこから学べることもたくさんあります。自分の人生の一部分ですものね。

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