現実味

昨年の冬に勘違いながら死んでしまうかもしれないという経験をして、また離婚後子どもを手元に置いておけないという状態になってから、それ以前とはあきらかに自分自身の居る世界や存在に現実味を感じないで居ます。人と居るときや、血の巡りの良いときはそれほど感じないのですが、ひとりになると悶々と諸行の無情を思い、ネガティブな事ばかり考えて、そんなことを考えている自分自身にまた憂いを感じて落ち込むばかりなのです。おそらく大人げない現実逃避なのでしょうが、日に何度も不安を感じている自分自身に不安を感じる事を繰り返すと、病も気からという奴で本当に病んでしまいます。
気力がなくなると、積極性も落ちますから、ものを覚えようという意欲も減るし、自分が今どこにいるのかということを把握することさえ忘れかけてしまいます。たちが悪いのは、客観的な自分が居て、それらプラス方向にモノゴトを考えられない自分の将来を明度の低い不透明ななんだか分からないもので包むだけ包んで「あーあ」と嘆くばかりなのです。
端から見ると昔のエネルギッシュに活動していた時代の名残からか、そんなこと考えているなんて全く思われないと思います。でも、この1ヶ月は特に酷い‥を通り越して怖いくらいでした。

先日翻訳家の清水真砂子さんの話を聞く機会がありました。話を聞いていると彼女がまだ若い頃に翻訳し、彼女の生き方を変えてしまったという「ゲド戦記」が読みたくなったので今読んでいます。華やいだ中に居ても心のどこかに素直に喜べないつかえを感じ、それが分かっていながらもどうしようもない心情や、ゲド自身が呼び出してしまった時間も形も名前も持たない「影」にゲドが恐れを感じる話を読んだ途端、上手く表現できませんが頭がものを考える事を妨げていた膜がピリっと破れたように思いました。今日は久しぶりに、本当に久々に世の中をホントの世界だと感じ、自分が立っている位置を把握できて変な不安感を持たずに過ごせた1日でした。
文章にしても絵にしても、最近しばらくまともなものを描くことがありませんでした。学習意欲につながる創作意欲やまたその逆が、相互に積み上げていけるように仕立てていくことが自分の場合は自分らしく生きるための基本なのだと思います。そのためには、まず学ぶことでも創ることでもどちらからでも構わないので、昨日の自分に一枚上乗せしていくことを繰り返すことの必要性を、久々に自分自身の頭で感じた日でした。

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