大塚国際美術館

瀬戸大橋をわたって、香川県から徳島県へ。鳴門市にある大塚国際美術館へ向かいます。

朝5時過ぎに広島を出発したところ現地に9時過ぎ到着しました。
開館時間が9時半からなので、海水浴場の駐車場に車を止めてNUDAで鳴門スカイラインを流してから美術館へ向かうことにします。

鳴門スカイライン、ざーっと走る分にはそれなりに楽しいのですが、紹介するほどの景観に出会えないというか、海に山に恵まれすぎている場所なのにちょっと不思議なスカイラインでした。

スカイライン中ほどの休憩所には、地元ライダーが集まっています。羅漢と違って標高が高くないから、年中集まれそうですね。

スカイラインを1往復ほどして美術館へ向かいます。美術館前に駐車場はないので、600mほど離れた無料の専用駐車場へ停めてシャトルバスでピストン運送となります。

美術館に関する概要をざっくりと書くと、「大塚製薬の創業75周年を記念してつくられた、100%原寸大の複製品を展示している美術館」です。展示してあるのは絵といっても、関連会社の大塚オーミ陶業の陶板にプリントしたレプリカ。

くわしくはこちらあたりで。

大塚国際美術館 – Wikipedeia

入館料は日本一高いし展示品は全部偽物だけど大人気!大塚国際美術館の魅力とは?

地上階から上のフロアへ向かう長い長いエスカレータに乗ったのかと思ったら、到着した場所は美術館の建物そのものの地下3階。ここから展示が始まります。で、いきなり真正面に、

システィーナホールが開いています。システィーナ礼拝堂の天井画の完全複製空間です。

絵に感激することよりもまず、空気の量が!圧倒的です。壁画と天井画を完全に再現、という言葉だけでは説明できない空間のリアリティがものすごい。1枚1枚の絵を見ていたらここだけで数時間は居られそう。普段目にしている美術書の図版なんて、現物壁画・天井画のほんの一握りの表面的な情報しか伝えていなかったのか‥と、初っ端から良い意味でガックリさせられる空間です。

真上。かなり高いところに描かれています。元絵はフレスコ画の作品ですから、建物が建てられたのが先で絵はその天井の漆喰に描いています。足場を組んでさかさま向きに描いたのでしょう。約500年前の作品ですから、日本では室町時代が終わって戦国時代の始まりのころ。ミケランジェロはこれを4年で描いたそうですが、人の一生分の仕事と言われてもぜんぜん疑いを持たない猛烈な仕事量です。

祭壇画などは絵だけでなく祭壇そのものも再現して展示してあります。絵画の部分の作品は知っていても、こう見せていただったのかということへの驚きがとても新鮮。

西洋美術史を人に教えるような仕事もしていましたが、自分の西洋絵画に対する情報なんて図版で見て更に他人が体系付けたものをなぞる本当にただの「知識」であって、作品を見て得た「体験」ではなかったのだということが、ほんの数点作品を見ただけでわかりました。原寸大の作品に囲まれるここでは、美術作品を自分が鑑賞している、というよりも美術図鑑の中に自分が飛び込んで作品群の中をゆっくりと泳ぎまわるような感覚を覚えます。

最初の「特集」展示を除けば、陳列は基本的に西洋美術史に沿った展示順路となっているので、古代ギリシャ・ローマの作品からが本来の展示の始まりです。美術史を体系的に学んでいてよかったと思うのは、こういう古典も非常に楽しめるところです。

古典の作品で布などに描かれた絵画作品は基材が痛むのでほとんど現存していませんが、壺や壁など基材が強いものに描かれた絵画は今でも鑑賞することができます。この美術館が陶板にプリントという手法で展示物を残しているのも「2000年変わらない」ということに目をつけたということですが、実際に紀元前の陶器に描かれたものが残っている‥というよりもそういうものしか現存していないということを考えると、確かになぁと思わされるところです。

壺などは全周囲を回転させながらスキャンしたものをプリントして額装展示してある関係で、展示品を側面から見ると壺の形状に応じた凹凸があることがわかります。

時折屋外にある展示を見るようになっていて、館内が広く歩き回ることになってもなかなか飽きることがありません。

古墳などは、内部空間を丸々再現して、ご丁寧に床には砂まで敷きつめてあります。この展示の本物は、絵の痛みからすると一般の方がこの空間を体験することができない状態でしょうから、すばらしく貴重な体験です。VRでいいじゃん、と思ってしまうかもしれませんが、空気の量感やほぼ密閉された空間の残響や、そのあたりが再現できるでしょうか?ここでは壁体に触ることも許されています。

中世美術が終わって、ルネサンスになったとたん、空間的なリアリティが!と、驚けるのも、そのことに画集から得られるものよりもよほど強いインパクトを受けるからです。ボッテチェッリの初期作品は、窓の外の風景にまでピントがぴたりとあっていて、F値の大きなレンズで撮った素人写真のようです。絵造りの進歩という点においては、カメラで撮る写真の技術も、美術作品の感覚的リアリティ表現の流れも同じですね。


ヴァティカン美術館の署名の間の「アテネの学堂」だけでなく、同じ部屋の対面に描かれた「聖体の論議」も向かい合わせで展示されていました。

以前出張で玉川学園高等部へ訪れたときに、この原寸大のアテネの学堂がホールに展示されているのを見ました。調べてみたら、この玉川学園の展示物もこの美術館と同じ大塚オーミ陶業のお仕事、ということでここと同じものなのでしょう。


レオナルドの最後の晩餐、修復前と修復後の作品が対面に展示。修復前の作品の痛み具合の酷さの伝わり方も、原寸大で更に修復後と比較できるここならでは。この手の修復前後の同時展示がいくつかありますが、同じ作品を比較するという楽しみ方も図版で感じるものとは比べようがありません。

学生時代、150号(Fサイズで2,273×1,818mm)とか非常識に大きなサイズの作品をどうして描かなくちゃいけないのか、と思っていましたが、基準をどの辺りに置くのかで考え方もずいぶん変わりますね。美術館もこの辺りまでくると、150号でも小さいんじゃね?と思うようになります。大きなサイズを描かされる意味も理解できるようになりました。鑑賞者の視覚の支配感が、150号クラスからじゃないと話にならない感じです。

ボッティチェッリのビーナスの誕生の一部。線描は、なんというか‥筆の性能の違いでしょうが日本の絵画の方が魂こもっている感じします。

このあたりから、各時代の作家層が分厚くなってきて、流して鑑賞してしまいたくなってしまうのを気合で押さえ込む必要がでてきます。

光を使ったドラマチックな構成の絵というと、カラヴァッジョの「聖マタイの召命」が浮かびますが、僕はジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「聖ヨセフ」のやわらかい光の表現が昔から好きです。これも、図版で見ると非常に丁寧な表現の絵に見えるのですが、

実際は作家の試行錯誤の痕跡が見て取れる、ちょっと力技な感じの表現で驚いてしまうのも、原寸大の図版ならでは。暗部の仕事の量と明部の仕事の量の違いもよく分かります。

これ、ぜひ見てみたかった作品の、裏側というか表側。

電動で観音開きに扉の部分が開くと、ヒエロニムス・ボッスの「快楽の園」が。それほど大きくない画面に緻密な仕事で、享楽と不道徳の混ぜこぜになった無茶苦茶にも程がある世界が描かれています。義務的に描いたんじゃなくて、おそらく楽しみながら描いていたんだろうなぁと思います。

油断をしていたら、入館直後に見たシスティーナ礼拝堂の2階部分正面から礼拝堂内部の空間を見ることができるテラスに出てしまって、ハッとします。

より近くから天井画を見ることができる配慮ですかね。

これも唐突に現れました。ダヴィッドの「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」。職人技と思えるまじめさ、丁寧さで緻密に描かれています。ついつい中央のナポレオンあたりに目がいきますが、列席している皆様の横顔も結構なナポレオン顔なのね、と一人ひとりの表情を追いかけてみるのも楽しいです。

ルーベンスとか、ネロになった気分で見ました。これも祭壇画の扉の裏側まで見られるようになっています。

小部屋から出たら目の前にターナー。モワっとフワっとした作風がこの時代では異色なので目立ちます。また、この次にコンスタブルが並べてあるのですが、これまたターナーが並ぶとコンスタブルの微細に描いた誠実な表現がターナーのボワっとした表現とお互いに引き立てあって、非常に良く見えました。

全周囲、モネの睡蓮の絵で囲まれた庭。普通の基材の絵ではありえない展示方法です。

学習コーナーにあった、キトラ古墳の再現物。剥落や亀裂など、すべて立体で再現されていました。

スーラの点描も本当に点描で視覚混合をしていたのが分かり、3×2mの作品全面に点描ご苦労様と頭が下がります。

印象派・ポスト印象派が終わり、絵画の表現が一気に多様化するその入り口においてあったボナールの作品。今回数ある展示の中で、一番衝撃的だったのはこの1枚かなぁ。この手前の絵とこの作品の間に、目には見えないけれどものすごく太い仕切り線が引かれているように感じました。思わず、うわーっと声が漏れました。なんというか、セザンヌやモネが抽象表現の入り口に居て、絵の都合のために絵を描きはじめていたとしても、それでもまだ何を描くかと問われればモチーフの割合が5割を下回らなかったような印象を受けるのですが、このボナールの作品は表現の重要さがモチーフを上回ってついに5割を超えたように見えるのです。

美術史をなぞる、それを原寸サイズの絵で。くどいようですが、図版で大きな絵も小さな絵もすべて並列に見比べるのとは違って、ここでは小さな作品には近づいて、大きな作品からはかなりひいて作品とその距離感も感じながら歴史をなぞることができます。ボナールに衝撃を受けるのも、なんというか表現の自由への入り口の扉を今ここで自分がくぐったぞ、と実感できるからではないかと思うのです。全部ニセモノなのにね。

もうひとつ感激したのは、クリムトとシーレが並列してある壁面。このラインナップで作品が並べて展示されるというのは、おそらく故人の二人が見ても感激するのではないかと思います。シーレはおそらく誰が見てもなにかしらグっとくる土臭い魅力を感じる作品を描き、クリムトは相反して装飾的な作品を描いていますが、人間を描きながら描いているものは人の表面的な形態じゃなくてもっと内面のドロドロした素の部分というか‥ああ!もうどうでも良いわ。

他の場所に比べて照明の関係か、なんだかひっそりとしたコーナーなのですが、この展示はとても良かったです。そして、シーレの作品に引き込まれるものもありましたがクリムトの「接吻」が殊の外、素晴らしかったです。やっぱりここでも大きさは大事だと思わされました。

塗る、という仕事に加えて引っ掻くという表現がムンクの作品で見られるようになります。モチーフを描くというよりは心の内面を手の動きで表そうとしたときに取れる表現‥何が描いてあるかというよりも何を描こうとしているのかが強く伝わりました。

ベックリンの「死の島」。好きな絵なのに好きだったのは雰囲気とか構成で、画面下部に島へ往く舟が描かれているとは恥ずかしながら知りませんでした。

エルンストのデカルコマニー(例えば絵の具を塗ったビニールを画面にベチョっと貼り付けて、ビニールを剥がしてできた模様を使った表現)も原寸ならその模様がよく分かる。これまで図版だと、この作品のかなりの部分を理屈と想像で補っていました。

クレーの「大通りとわき道」。いいね、完全に何が描いてあるか、モチーフは何なのかはどうでもよくて表現のためのモチーフという扱い。

ここに展示されている作家さんの中では、多分一番最後年に属する作家さんだと思われる、ベン・ニコルソンの作品も。この絵が好きなわけじゃないけれど、僕の好きな作家ベスト5に入る作家さんだけに、2点だけの展示でしたがとても嬉しかったです。


レンブラントの自画像部屋とか。若いころから老年の自画像まで、継続は力なりというか、後年こういう展示をしてもらえるとか思ってなかっただろうなぁ。

どの時代まで取り上げるんだろう、と最後の方はいつ終わるかいつ終わるかと思ってみていましたが、絵画の終焉ともいえる抽象表現主義でおしまい。地下の展示から始まって、自然光の注ぐ地上階へあがってくるのも、絵画の歴史を追って現代まで駆け上がるという演出でしょうか。

4kmの鑑賞ルートを行ったり来たりしながら食事もせずにじっくり巡って、4時間。作品を見終えてスタート地点の地下3階へ戻ってくると、自分が入館したときより混みあってきていました。朝イチ入館が良いですね、ここは。また訪れたいかといわれたら、絶対にまた来たいと思いますが、次は誰かと来てももう別行動で好きな時代の好きな絵にじっくり付き合うような鑑賞になるかと思います。

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