国宝

国宝 上・下 吉田修一 / 朝日新聞出版

小説「国宝」は映画になったと知る前に一度手にしたことがあるけれど、冒頭の任侠モノの話に興味が持てず一度手放してしまっていた。映画化されたことを知ってもう一度挑戦してみたところ、今度は面白く‥というか淡々と進んでいく話に淡々と付き合いながら下巻の終わりまでたどり着いた。上巻が終わったあたりから、淡々とした中にも太く複雑に練り上げられていく世界に面白さも滲みはじめて、映画も是非見てみたいなと思い始めた。

昨日映画を見終えて、思うところは沢山あるけれど、その思うところの記録をする。

「3時間があっという間」という評判だったけれど、さすがに視聴中の3時間は長い。けれど終わってしまえば、ああ、あれで3時間も経ったのかと確かに思う。原作からかなり話が削られていているけれど、さすがにそれらを含めてしまうと3時間どころか4時間、5時間という長さになってしまう。上巻と下巻の境界あたりで七人の侍みたいにインターミッションを取ればよいのか?上巻が終わったあたりで話が面白くなってきたので映画に幕間を取り入れてみてもそれはそれで後半への期待も膨らみそう。

それはそれとして、映画だけで作品を成り立たせるための尺を短くする翻案・脚色は仕方がない。しかし原作を読んだ直後に映画を見るとそれらがなかなか歯がゆいのだ。

原作では話の本筋と同時進行する登場人物の生きざまや人間模様が映画ではかなり割愛されている。例えば俊介が表舞台から引いていた8年間。映画ではバッサリカット。綾乃の若いころの操行、映画ではバッサリカット。喜久雄の長崎での仇討ち、万菊さんが場末た宿で亡くなる理由、喜久雄の芸能界デビュー、バッサリカット。その他こまごまバッサリカット。何より驚いたのは徳次が冒頭でに出てきただけで、映画の中では全く生かされていないことだ。正直彼がいたことで作中の喜久雄がどれだけ救われたことか‥。

原作を読み終わる頃には、これを映画化するならこんなシーンにするな、と絵柄や尺などを自分なりに想像しながら読んでいた。最終章「国宝」を読みながら思い描いていた僕のイメージと映画では、全くもって違う映像じゃないですか。最後の喜久雄が突き抜けた感の表現も原作に比べると映像頼りな表現になっているし、なにせ徳次が出てこない。あの終盤の忘れたことに現れる意外性に「おおおおお!」となったのに‥。

僕が原作が先で映画があと、だったのでこのような感想になってしまうけれど、映画が先で原作があと、の人はどのような感想を持つのだろう。妻が後者になるので、妻の読了後あらためて話をしてみようと思う。


【追記】

原作を読んで、映画を見て、あらためて原作本を手に取りなおして最終章を読みなおしてみた。初回読んだときには「淡々と‥」という印象だったけれど、再読してみると物語の解像度が初回に読んだ時に比べてものすごく密度高く、それがスッキリときれいに頭に入ってきて、正直感動した。何だろうこれ、初めての体験だ。喜久雄の小さな笑みに綾乃が感じ入るあたりとか、素晴らしいじゃないですか。

流れで上巻最初の章も読み直してみた。こちらはものすごい情報量でびっくりした。初回は組や登場人物の立ち位置が良くわからず、薄らぼんやりと話の筋を頭に流し込んでいたけれど、あらためて読み直してみるとものすごく丁寧に人間模様が練り上げられているじゃないですか。面白いなぁ。勢いで最後まで読み直したくなりました。そうしたら初回の何倍も、相当楽しめると思う。

映画効果、スゴイ。ハリー・ポッターも原作を読んで映画を見て原作を読み直せば、実はこういう体験ができる作品だったのだろうか‥。

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