見えるモノと見えないコト

今回の離婚に際して、親戚をはじめ周囲の方々からご意見頂いております。身の回りの人からみた僕は「理想ばかりを追いかけて(経済的な)家族の支えにいつまでもなろうとしない」盆暗扱いなので、立場的に良い扱いになりません。僕なりに言わせてもらえれば決して楽な道を選んだ訳ではありませんし、妻の支えのもと、自分の本当にやりたい仕事に就くために努めていたわけですが、妻の支えだと思っていた単身赴任は単なる厄介払いだったというショッキングな事実が今回の離婚の発端なのですから、そういった背景を知らずに一方的に説教されるのも僕としては随分心苦しい思と言うほかありません。

僕の掲げていた「なるべく多くの人が笑えるように」という理想は、実のところそんなことはあり得ないのはわかっています。子どもはどちらかに引き取られるわけですし、そのことでどちらかに不満も残るでしょう。ただそれを単なる不平不満ではなく、前向きに捉えるにはどうしたらよいのか考えた結果、僕が折れることで相手の信頼を得て、それが相手への信用へつながる好循環を期待する、ということしか僕には考えられませんでした。ありがたいことに、そのときは元妻から感謝の言葉をもらいました。

ところが親戚を通じて、今回の離婚に際して元妻が納得できていないということを耳にしたので、元妻に電話をしてみました。そこでまた書くのも忍びないことをいろいろ言われてしまいましたが、その中で何故納得できていないのに離婚届を出したのかと尋ねたところ「一刻も早くあなたと縁を切りたかったから」と言われちゃいました。
協議のために費やした時間は何のためだったんでしょう。納得ができていない条件に従って離婚なんかしたら悪循環が始まってしまうではないですか。僕は全くそんなことは望んでいません。より良く問題解決したいのに、その努力を惜しんで、開き直りや諦めや勢いで行動された結果、僕に対して周囲から「ひどい条件をのませた」と言う評価をされても、僕には返す言葉がありませんよ。

元妻が離婚届を出す直前に電話で話をしたとき、本当の最後に「事情によって斗威を引き取る側が子どもの支えになってやれない状況になったとしても、相手に「斗威のことをお願い」、と安心して言える仲で居ようよ」と言いました。お金を払ってハイおしまい、という約束よりも余程安心できる約束だと感じて欲しいのです。

でも、悲しいことに顛末から察するところ、見えるモノしか捉えられなくなってしまっている人は、見えないコトに心から感謝することはできないのだろうと、思わざるを得ないんです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です