死について考えること

日付こそ1月3日に投稿ということになっていますが、正直に言うとこれをUPしたのは精密検査の結果が出た6日になります。体の違和感を感じ、病院へ行き、良性か悪性かはわかりませんが腫瘍かもしれないものがみつかって最悪死んでしまうことを考えると、死ぬことについて記述してそれをUPすることがとんでもなく縁起悪いことに感じて気持ちが悪かったのです。いや、正直恐かったというのが本音です。

昨年の末、東京へ向かう新幹線の時間はひとりぼっちで長時間居なくてはならない時間でした。自分はどちらかというと物事の最悪の状態を考えることを保険にして気持ちを静めるタイプなのですが、それがこういう時間では裏目にでてしまいます。考えたくなくても胸には違和感を感じるし、あれやこれやと基本的に死んでしまうことを前提としたネガティブな事ばかり考えていました。
僕は子どもの頃、長い間キリスト教の教会に通っていました。それもあって僕の考え方は基本的にキリスト教的発想です。輪廻はナシ。人生はワンチャンス。ただ自分が通っていた教会ではキリスト=神という考え方の教会だったのですが、子どもながらに聖書にはどこにもそんなこと書いていないじゃない、と反発心もありました(余談ですが、後日その教会の牧師の息子の友人(アメリカ人)に大学生になってから会った折、キリストは神の被造物であって神自身ではないといった旨の話をしたら本気で憤慨していましたから、彼らの宗派では本気で三位一体を信じているようでした)。
大学生になってからエホバの証人の話を聞き、彼らの考え方が自分には一番しっくり来ることが分かりました。ので、僕の場合は基本的にキリスト教的発想といっても、エホバの証人的な考え方ということになります。

キリスト教では神を信じる者は死後、この世の裁きの後に創られる地上の楽園で復活し、永遠の命を得ることができるということになっています。では神を信じない者はどうなるのでしょうか。地獄でこの世の罪の重さに応じた責め苦を永遠に受けることになるのでしょうか?エホバの証人は「神を信じない者」の死後は「無」であると考えているようです。僕も死後は「無」であると考えています。

死に対して、これまで自分は生きているうちに積み上げてきた様々なモノが失われることに悲しみや恐れを抱いてきました。今回この「無」になるという前提で物事を考えてみると、死んでしまう当人にとっては死んでしまえば幸せも悲しみも何も残らないわけで、死ぬと分かってその瞬間を迎えるまでのわずかな時間の無念さや苦しみだけが当人の不利益であるということに行き着き、なんだかヘンな覚悟ができました。苦しみや悲しみを感じるのは、当人よりもむしろ現世に生き続けなければならない人たちなわけです。ただ、その人たちも人の死に立ち会ったことのない人は居ないでしょうし、死んでしまった僕は歴史に名の残ることをしたわけでもありませんから、十把一絡げに「いわゆる死んでしまった人」というグループにおさめられて、そのうちだんだんとつかみ所のない思い出の一つになってしまうんだろうなぁ、と考えました。
一つだけ死んでしまうことに対して胸が痛むのは、自分の子どものことです。子どもの成長を見ることができないという利己的な悲しみは、死んで無になってしまえば消えてなくなるわけですからこの際自分にとっての問題にはならないのですが、残された子どもが父親の死の悲しみを引きずってこの先生きて行かなくてはならない事を考えると胸が張り裂けそうです。せめて子どもが親離れできるまでは、良いと思える方向に子どもが向かえるよう自分の伝えられることを伝えて生きていきたいと思いました。

元気なころは考えることをできるだけ避けてきた死についてですが、いざ自分が感覚的にではなく肌を接するような存在として認めざるを得ない状態になってしまうと、そのものを正視して真剣に考えざるを得ません。無に帰することを楽観的に考えるというのは簡単なことではありませんが、今の今、自分に精一杯生きたか?と自問したときに純粋に「はい」と言えない人生では、死ぬ直前までの後悔や苦しみが大きいであろうというのが、今回見つかった答えの一つです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です